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Kichi’s Universe吉の物語

Chapter 5

スターリー・ナイトのブドウ畑は、谷の間にひっそりと横たわっています。丘は花で覆われ、麝香の香りが一面に広がっていました。それは金木犀を思わせるような、甘美な香りでした。鼻の下を香り高いそよ風が通り抜けると、再び元気が湧いてくる気がします。吉は、こんな朝早くからブドウ畑で働く人を見つけて驚きました。どうやら、麦わら帽子をかぶった女性のようです。無造作にブドウを摘んで、首をかしげながら味見をしています。女性が誰かに手を振ると、ブドウ園の敷地内にある家の玄関に一人の男性が現れました。手には卵の入ったフライパンを持っています。男性は女性の方に走っていこうとしましたが、まだ卵の入った鍋を持っていることに気づいて、慌てて家に戻っていきました。膝を抱えて屈み込んだ女性の笑い声が谷間に響きます。その一部始終を見て、吉はにっこりと微笑みました。

「昼間に隠れる場所を探さなくちゃ。人に見つかったらだめだからな」

吉はぐるぐると旋回して、適当な隠れ場所を探しました。谷を一周すると、丘の下流側にあるものを見つけました。岩の間にある狭い隙間です。それは、まるで巨大な槍が泥土にまっすぐ突き刺さってできたかのような形をしていました。吉は日が暮れるまで、身体を丸めてゆっくり休みたいと思いました。夜通し飛んで、ひどく疲れていたのです。これまでしっぽをこんなに長時間、動かし続けたことはありませんでした。吉は岩に開いた隙間を通り抜け、しっぽを松明のように使って、洞穴の奥へ奥へと歩いて行きました。

 

「よく来た、若いキツネよ」

ふいにしわがれた声が響きました。吉は大理石のように固まってしまいました。今の声はなんだ?一体誰がこんなところにいるんだろう。洞窟の奥に潜む闇は、吉のしっぽのかすかな光では照らすことはできません。

「これじゃ、数メートル先も見えやしない。もっと明るくしなくちゃ」

吉は身体全体を白熱球のように明るく光らせました。光は暗闇を隅々まで照らし、暗い窪みにある岩までもはっきりと見えます。

 

洞窟の奥には、一人の老人が座っていました。絹糸のような白髪は膝まで伸び、灰色の太い髭は波打つように顔を覆っていました。しわくちゃでひび割れだらけの皮膚をしたその老人は、静かに目を閉じています。吉は老人に声をかけることも近寄ることもできませんでした。ただ、老人が自分の姿をまぼろしだと思ってくれることを願いながら、動かずにいるのが精いっぱいでした。

キツネ騎士団のキツネは、人間と交わることを禁じられています。騎士団の第一の掟を、あろうことか吉は最初の任務で破ってしまったのです。しかし、願いもむなしく、老人が深い声で吉に語りかけました。

「恐れる必要はない。私は無害な盲人に過ぎない」

老人は口を開かず、あごも動かさず、こう言ったのです。吉は、この不思議な老人の言葉が、なぜか自分の心の中から響いてくるのを感じました。老人はにっこり笑いました。

「このブドウ園のために、ずいぶん遠くから来たものだな。ここがキツネにとって大切な場所であることは知っていたが、お前にとってはもっと特別な意味があるのだろう」

それは万物を支配し、すべてを知り尽くしたかのような口調でした。多くの知恵と経験に裏打ちされた言葉であることが伝わってきます。

「あの、勝手にお宅に入ってしまって申し訳ありませんでした。だれのお邪魔もしないつもりだたのです」

吉は頭を下げました。

「私の家?私は家を持っていないのだ、親愛なるキツネよ。キミと同じように、私もこの洞窟の客人に過ぎない」 

老人は答えました。

「そうなんですね。僕はブドウ園を救うためにここに来たんです」

吉は丁寧に言いました。

「僕はワイン造りの見習いキツネです。ワインを通して、人間を助けることを目標にしています。僕がここに来た理由は....」

「水不足を解消するためだろう?」

老人が吉の言葉を補うように言いました。吉は尊敬の念をこめてうなずきながら、驚きを隠すことができませんでした。

「それで、キミはブドウ園を助けたいと?何かアイデアはあるのか?」

老人は興味を持った様子でそう言いました。まるで、吉が驚くようなアイデアで自分を楽しませてくれることを期待しているようでした。

「ええと、僕の考えは...。雨、雨です。この場所には雨が必要です」

「なるほど、雨か!しかし、もしブドウ園に雨が降ったら...」

「そうなんです。雨は、ブドウを台無しにしてしまうのです」

吉が答えると、老人は厳しい顔で頷きました。

「でも、雪が降ったとしたらどうでしょう?」

「なるほど、それは名案だ!キミは賢いな。しかし、まだいくつかの穴があるぞ。雪が降るだけでは、水はその”穴”から漏れてしまうかもしれん」

それを聞いた瞬間、吉は老人が言葉遊びが好きだということに気がつきました。言葉遊びが好きと言えば、長老のほかにありえません。長老が老人に変装して現れ、僕を試そうとしているに違いない、と吉は確信しました。

「霜...」

と吉はつぶやきました。

「もし雪が降りすぎたら、ブドウは霜にやられてしまうかもしれない。そのリスクは避けなきゃいけません」

老人はあぐらをかいて座り、「なるほど」とうなずきました。吉は爪で顎をかきながら、必死に考えました。老人はただ温かく微笑みながら、辛抱強く吉の言葉を待っています。

「もし......アンデス山脈にかかる雲を全部集めたらどうでしょう。雨は雪になり、雪は解けて水になり、川や地下水路には再び新鮮な水が流れるようになります。そうすれば、ブドウに雨が直接降りかかることはありません」

老人の顔から笑みが消えました。吉はもしかしたら自分の考えが受け入れられなかったのかもしれない、と思いました。

「どうやってすべての雲を集めるつもりなのだ?」

 老人は真剣な調子で尋ねました。吉はどぎまぎしながら、答えました。

「えっと、ただの思いつきで...。今言ったことは忘れてください、バカバカしい考えでした」

「愚かな思いつきだと?自分の想像を恥じることはない」

吉が戸惑っているのを見て、老人は言いました。

「私が誰であるかについて、キミが混乱していることはわかっている。しかし、これだけは覚えておくといい。私はブドウのように光を閉じ込め、それを変化させる。私は鏡であり、太陽に打たれた岩でもある。キミはこれからもずっと、私の中に自分自身の姿を見つけることができるだろう。キミにはまだ理解していないことがたくさんある。しかし、私はいつもこの洞窟に閉じこもっているわけではない。私がこの洞窟にいるのは、キミを助けるためなのだ」

「ありがとうございます。ひとつ、お尋ねしてもよろしいでしょうか?」

吉は丁寧にお願いしました。

「もちろんだとも。なんでも聞くがいい」

老人は嬉しそうに言いました。どうやら老人は、早く吉が何か尋ねてくれないかとずっとうずうずしていたようでした。これは全部僕の想像なんだろうか?吉が心の中で思うと、老人が間髪入れずに言いました。

「もちろん、今のこの状況はキミの想像かもしれない。若いキツネよ!しかし、それは大きな問題かな。花やミツバチ、丘や空を見てごらん。これらはすべて最高の想像力の産物だと思わないかね。そうでなければ、コーヒーやタール、蜂蜜やバラ、甘草やバターの風味を持つ果実があるなどと、どうして想像できるだろう?ブドウにも、比類なき想像の余地が秘められているはずだ。そうでなければ、ブドウはどうやって自分でも思いつかないようなもの、つまりワインに姿を変えることができるというのだ?すべての生き物は、想像力が豊かだ。想像力がなければ、キミも私もこの洞窟にいることはできなかっただろう。当たり前のことを当たり前に考えるには想像力が必要で、だから想像は決して間違ってはいないのだ。そう、どうして想像したことが間違いなどと言えるだろう?」

吉はますます混乱してしまいました。

「どうして僕の任務をご存知なのですか?どうしてそんなに何でも知っているのでしょうか?まるで僕のことを見ていたみたいに......。」

老人は数秒間、黙ったままただ微笑んでいました。

「若いキツネよ。キミこそが私を追いかけてきたのだよ」

老人は言いました。

その声の響きは、荘厳でありながら柔らかくまろやかで、まるで讃美歌のようでした。老人の声は吉を暖かく包み込み、甘い眠りへと誘います。しっぽでゆっくりと鼻を包み込むと、吉はひげをピクピクと動かしながら深い眠りに落ちていきました。

 

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